読売と巨人がそれぞれ画策している、ドラフトの希望枠復活とお色直しする新日米野球開催が揃って危うくなっている。
西武の裏金事件の悪の温床となったとして2007年から廃止された大学・社会人選手の希望枠に関し、巨人は事あるごとにこう復活をアピールしている。「選手の希望を聞くことは必要だ。メジャーへアマの逸材が流出するのを阻止するためにも」と。が、その本音が今年のドラフトの超目玉になる早大・斎藤佑樹の一本釣りにあることは見え見えだ。新年早々、ロッテ、ヤクルトが相次いで「斎藤1位指名」を公言したのも、巨人が画策する希望枠復活を阻止する思惑もある。
そんな水面下の裏事情もある巨人VS他球団の斎藤争奪戦が注目されている中、26日に大阪市内のホテルで12球団側と事務折衝、「国内、海外を問わず、FAは全員7年」を要求した労組・日本プロ野球選手会(新井貴浩会長=阪神)の関係者が注目すべき情報を口にしている。
「ドラフトは昨年までと同じで1位は入札・抽選制度のままで希望枠復活はなさそうだ。巨人が斎藤獲りのために、動いていると聞いていたが」と。多勢に無勢で、他球団の協力が得られずに巨人が希望枠の復活を断念したという注目情報だ。希望枠が復活すればマネーゲームになり、巨人にかなわないロッテ、ヤクルトは万々歳だろう。「大金が動く希望枠は廃止すべき」という立場を取ってきた選手会も喜びを隠さない。
今年の秋に、日米親善野球をリメークした「日本選抜がメジャー選抜相手に強化試合」をうたい文句にする新日米野球を開催したい読売の前には、この労組・選手会が立ちはだかっている。
「アジアシリーズ、WBCなど真剣勝負の国際試合が増えた今、花相撲の日米野球は存在価値がなくなった。日米交流など意義のあった過去の業績を称える意味で2006年に読売主催で最後の日米野球をやっている。復活させるには、それなりの理由がなければ認められない」。
選手会関係者はこう明言している。昨年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を連覇した侍ジャパン効果に便乗しようとする、読売主催の「日本選抜がメジャー選抜相手に強化試合」という真剣勝負を強調する新日米野球計画だが、選手会は簡単に首を縦に振らない。球界関係者が最後の落としどころを明かす。
「どうしてもとなれば、読売がお得意のばらまき作戦を展開するしかないだろう。出場する日本選抜の選手に高額のギャラを払い、選手会そのものにも大金をつかませるしか手はないだろう。選手会も活動資金は枯渇しており、お金はのどから手が出るほどほしいはずだ」。
しかし、FA選手乱獲、他球団の主力外国人選手横取りと、札束勝負がお家芸だった読売巨人軍も「育成」を口にするように、金欠状態になっている。選手会の壁をクリアするのは簡単ではない。
2010.01.28
巨人軍 「札束勝負」が限界?
posted by YOSHI at 18:50| 日記
2009.11.07
世界一松井“英雄パレード”お立ち台独占
ヤンキース松井秀喜外野手(35)がニューヨークに祝福された。歓喜のワールドシリーズ制覇から2日、チームはブロードウェーで優勝パレードを行った。摩天楼に紙吹雪が舞う中、沿道のファンは松井にMVPコール。マンハッタンの英雄は笑顔で応えた。一方で、前日からフリーエージェント申請がスタート。ヤンキース残留に向けてライバルとなりそうな有力選手が次々と名乗りを上げた。
万感の思いで松井は手を振り続けた。白いシャツの上にグレーのジャケットを羽織り、ノーネクタイのリラックスした表情で最高の瞬間を味わった。7年間の苦楽を共にしたカーロン通訳やチームメートらが同じ特別仕様車に乗ったが、その中でMVPの松井は一番高い場所を独り占めした。パレード出発直前には、両手のこぶしを握り締めながらガッツポーズ。体全体で喜びを味わった。
9年ぶりの優勝パレードを祝うように、ニューヨークの朝はきれいに晴れ渡った。パレードはマンハッタン南端のバッテリーパークを出発。ブロードウエーを北上し、シティーホールまでの約1・3キロをゆっくりと進んでいった。沿道はファンでびっしりと埋まり、空には紙吹雪が舞った。3期目の当選を果たしたばかりのブルームバーグ市長もパレードに駆けつけた。FOXテレビでも生中継。ニューヨークが街を挙げてヤンキース一色に染まった。
シリーズ終了翌日も多忙を極めた。CBSの人気番組「レイト・ショー・ウィズ・デービッド・レターマン」に緊急出演。司会のレターマンが「松井は来年戻ってくるかな?」とラブコールした直後に優勝トロフィーを持って登場すると、大きな拍手で迎えられた。「おまけですよ。一瞬出ただけだから」と照れたが、MVP効果はやはり絶大だった。
メディアのお祭り騒ぎは想像以上。街を歩けば「コングラチュレーション」「グッドジョブ」などの言葉をしきりに浴びせられた。「これだけニューヨークの方が喜んでいるのを見ると、ヤンキースってすごい存在なんだと改めて感じる」と成し遂げたことの重大さも肌で感じていた。
同時に4年契約が満了した松井のオフシーズンも始まった。シリーズ終了翌日からヤンキースとの独占交渉期間がスタート。19日(日本時間20日)までに再契約に至らなければFAとなり、他球団との交渉が解禁となる一方でヤンキース残留の可能性は低くなる。
「ニューヨークが好きだし、ヤンキースが好き」との言葉に偽りはない。ただ契約内容にかかわらず残留を希望しているわけではなく、年俸や守備機会などの条件がそろうことが必要となる。ニューヨークと松井の「相思相愛」は微妙な状況の中で揺れている。
本当、日本人の誇りです。
松井選手は、ジャイアンツ時代から悪く言われることの無い紳士で、その姿勢はNYヤンキースに移籍してからも変わらない人格者です。
NYに移住してからも、真面目に野球に取り組み、地域コミュニティーやボランティアへ協力し、誠意ある態度で日米のメディアと接してきたそうです。
インタビューで自身の事を話題に振られても、必ず言葉に出てくるのは【チームの為、チームメイトの為、ヤンキースファンの為に、良いプレイをする】です。
この紳士的な姿勢は、ヤンキースのキャプテンであり、大親友でもある【NYの貴公子】デレック・ジーターも認めるほど。『ヒデキは俺の相棒だから』とマスコミに公言して憚りませんし。
今シーズンの松井選手は、シーズン当初からずっと【移籍】をマスコミに質問されたり、膝痛で思うようなパフォーマンスを見せることが出来ないとファンから心ないヤジが飛んできたりと、常人なら間違いなく精神的に折れるであろうことも多々あったかと思います。
けれども、それを吹き飛ばす為に自室に戻ると、ジャイアンツ時代から変わらず遅くまでバットを一心不乱に振り続けて、一歩でもその時点での自分を超える為の努力を惜しまなかったそうです。
ワールドシリーズの時も、きっと膝も限界だったと思います。
けれども、野球の神が味方してくれたのかもしれません。ワールドシリーズを通じて松井選手のパフォーマンスは神懸かり的でした。
第6戦の第1打席で、その総てを見る事が出来ます。ボール一つ分でもアウトやインに外れれば悠然と見送り、ストライクゾーンに入れば常に強振。
しかも、スイングスピードが尋常じゃない速さ。スロー再生しても速いんですよ。
大ファウルの次の球をライトスタンド2階席に持っていくとか、出来すぎにも程があります。
この打席は、まだ2回の裏。試合も序盤なのですが、駆け引きは【試合終盤の1点取られたら終了】というほどの緊迫感のあるもので、球史に残る打席だったと思います。
メジャーのボールは、日本のボールよりも大きく、しかも縫い目が荒い為に空気抵抗をかなり受けます。
その為、日本人打者がボールを飛ばしにくいのですが、松井選手は日米関係なくスタンドインさせるパワーを持っています。
けれども、シーズン中はホームラン狙いよりもチームバッティング。
そして、ジャッジに対して素直に従います。自分の結果が悪くてもチームが勝てば、万事OK。これが松井選手のスタンスであり、NYで愛される理由でもあります。そして、アメリカでの評価は日本より高かったりします。
脱線しましたが、常に自分を高めてきた松井選手が、メジャー最高峰のチームであるNYヤンキースの中心選手として、NYの青空の下で紙吹雪の舞う優勝パレードで一番先頭の車両に乗って観衆から一際厚い声援を受けているのを見ると、日本人として本当に胸が熱くなります。
MLBの頂点であるワールドチャンピオンになり、そしてその中でも最も活躍した選手として認められた瞬間は、日本野球界にとっても偉業を達成した瞬間だと思います。
本当、松井選手おめでとうございます!
万感の思いで松井は手を振り続けた。白いシャツの上にグレーのジャケットを羽織り、ノーネクタイのリラックスした表情で最高の瞬間を味わった。7年間の苦楽を共にしたカーロン通訳やチームメートらが同じ特別仕様車に乗ったが、その中でMVPの松井は一番高い場所を独り占めした。パレード出発直前には、両手のこぶしを握り締めながらガッツポーズ。体全体で喜びを味わった。
9年ぶりの優勝パレードを祝うように、ニューヨークの朝はきれいに晴れ渡った。パレードはマンハッタン南端のバッテリーパークを出発。ブロードウエーを北上し、シティーホールまでの約1・3キロをゆっくりと進んでいった。沿道はファンでびっしりと埋まり、空には紙吹雪が舞った。3期目の当選を果たしたばかりのブルームバーグ市長もパレードに駆けつけた。FOXテレビでも生中継。ニューヨークが街を挙げてヤンキース一色に染まった。
シリーズ終了翌日も多忙を極めた。CBSの人気番組「レイト・ショー・ウィズ・デービッド・レターマン」に緊急出演。司会のレターマンが「松井は来年戻ってくるかな?」とラブコールした直後に優勝トロフィーを持って登場すると、大きな拍手で迎えられた。「おまけですよ。一瞬出ただけだから」と照れたが、MVP効果はやはり絶大だった。
メディアのお祭り騒ぎは想像以上。街を歩けば「コングラチュレーション」「グッドジョブ」などの言葉をしきりに浴びせられた。「これだけニューヨークの方が喜んでいるのを見ると、ヤンキースってすごい存在なんだと改めて感じる」と成し遂げたことの重大さも肌で感じていた。
同時に4年契約が満了した松井のオフシーズンも始まった。シリーズ終了翌日からヤンキースとの独占交渉期間がスタート。19日(日本時間20日)までに再契約に至らなければFAとなり、他球団との交渉が解禁となる一方でヤンキース残留の可能性は低くなる。
「ニューヨークが好きだし、ヤンキースが好き」との言葉に偽りはない。ただ契約内容にかかわらず残留を希望しているわけではなく、年俸や守備機会などの条件がそろうことが必要となる。ニューヨークと松井の「相思相愛」は微妙な状況の中で揺れている。
本当、日本人の誇りです。
松井選手は、ジャイアンツ時代から悪く言われることの無い紳士で、その姿勢はNYヤンキースに移籍してからも変わらない人格者です。
NYに移住してからも、真面目に野球に取り組み、地域コミュニティーやボランティアへ協力し、誠意ある態度で日米のメディアと接してきたそうです。
インタビューで自身の事を話題に振られても、必ず言葉に出てくるのは【チームの為、チームメイトの為、ヤンキースファンの為に、良いプレイをする】です。
この紳士的な姿勢は、ヤンキースのキャプテンであり、大親友でもある【NYの貴公子】デレック・ジーターも認めるほど。『ヒデキは俺の相棒だから』とマスコミに公言して憚りませんし。
今シーズンの松井選手は、シーズン当初からずっと【移籍】をマスコミに質問されたり、膝痛で思うようなパフォーマンスを見せることが出来ないとファンから心ないヤジが飛んできたりと、常人なら間違いなく精神的に折れるであろうことも多々あったかと思います。
けれども、それを吹き飛ばす為に自室に戻ると、ジャイアンツ時代から変わらず遅くまでバットを一心不乱に振り続けて、一歩でもその時点での自分を超える為の努力を惜しまなかったそうです。
ワールドシリーズの時も、きっと膝も限界だったと思います。
けれども、野球の神が味方してくれたのかもしれません。ワールドシリーズを通じて松井選手のパフォーマンスは神懸かり的でした。
第6戦の第1打席で、その総てを見る事が出来ます。ボール一つ分でもアウトやインに外れれば悠然と見送り、ストライクゾーンに入れば常に強振。
しかも、スイングスピードが尋常じゃない速さ。スロー再生しても速いんですよ。
大ファウルの次の球をライトスタンド2階席に持っていくとか、出来すぎにも程があります。
この打席は、まだ2回の裏。試合も序盤なのですが、駆け引きは【試合終盤の1点取られたら終了】というほどの緊迫感のあるもので、球史に残る打席だったと思います。
メジャーのボールは、日本のボールよりも大きく、しかも縫い目が荒い為に空気抵抗をかなり受けます。
その為、日本人打者がボールを飛ばしにくいのですが、松井選手は日米関係なくスタンドインさせるパワーを持っています。
けれども、シーズン中はホームラン狙いよりもチームバッティング。
そして、ジャッジに対して素直に従います。自分の結果が悪くてもチームが勝てば、万事OK。これが松井選手のスタンスであり、NYで愛される理由でもあります。そして、アメリカでの評価は日本より高かったりします。
脱線しましたが、常に自分を高めてきた松井選手が、メジャー最高峰のチームであるNYヤンキースの中心選手として、NYの青空の下で紙吹雪の舞う優勝パレードで一番先頭の車両に乗って観衆から一際厚い声援を受けているのを見ると、日本人として本当に胸が熱くなります。
MLBの頂点であるワールドチャンピオンになり、そしてその中でも最も活躍した選手として認められた瞬間は、日本野球界にとっても偉業を達成した瞬間だと思います。
本当、松井選手おめでとうございます!
posted by YOSHI at 16:36| 日記
2009.10.06
オリンピック
2016 年の東京オリンピック招致はならず、リオに決定したわけですが、いろいろと違和感が・・・そもそもなんで招致したのかというあたりに違和感がありますし、マスメディアの慎太郎バッシングが弱すぎるんじゃないかというのも違和感。
いやまあ、選ばれなかったこと自体は石原都知事を責めるようなものでもないとは思いますけどね。むしろメディアの遠慮ぶりが気になると申しましょうか。
ボクシングの亀田一家にしろ沢尻エリカにしろ、些細なことを取り上げて水に落ちた犬を叩くのがマスメディアの習性のはずなので、それに比べると今回はずいぶん遠慮してませんかね。
それでもまあ、週刊誌はいつも通り食いついてるみたいですけど、新聞やテレビはいかにも相手を見てるというか、強面にはてんでだらしがない。
まあ、それは些細なことで。というかいつものことなんで。
最大の違和感はそこではなく、そもそもなんでオリンピックなのか、ということなんですね。マイミクさんのところでも触れましたが、ぶっちゃけ
えー、いまさらオリンピックすかぁ?
みたいな違和感がずっとありましてね。金が掛かりすぎるとかセキュリティがどうとかいう前に、オリンピックって、そもそもそんなに面白くてありがたいものなの?いい加減古くね?みたいな感じ。
だから応援しろって言われてもね・・・たとえていうなら「上司と行くカラオケ」みたいなもんですよ。楽しいのはお前だけだろ、お前の楽しみをオレに強制するなと。
その手のイベントごとって、たぶん時代ごとの感性とか価値観が出るはずなんですよ。いろいろひっくるめて「時代のエートス」なんて言い方をしますが、何を面白いと思うかも結構時代ごとに差が出るもので。
たとえば万博。これなんかはいかにも十九世紀的なイベントですよね。「博」覧会って、そもそも「博」物学的な楽しさ、つまり他所の土地の品を珍しがるということなんですが、それをワールドワイドの規模で実施するイベントが万博ってわけです。
ぶっちゃけた話、日本髪を結った女性がヨーロッパで「ゲイシャガール」なんつって珍しがられた、そういうレベルの話ですわ。もっとも大阪万博のころはガイジンを見るとサインをねだった、みたいな話がありますんで、あんまり他国のことばかり笑えないんですけど。でもまあ、見たことがない、珍しいってそれだけで人々の興味を引けるわけです。
ところが、二十世紀になると、世界のことがだいたい分かってきちゃう。いい加減地球上に珍しいものが枯渇してしまうんですね。万博っていう十九世紀的イベントも時代にあわせて変化せざるを得ない。
大阪万博は「月の石」ですわ。珍しさを楽しむという点ではまだ博物学的ですけど、少なくとも地球からはハミ出ちゃってます。これがつくばになると「科学博」でしょう。もう博物学じゃなくて、科学と工学なんですね。それ以外にも博覧会はありますが、どれも特定のテーマを持つ見本市、いわば博覧会としての原点回帰ですわ。もう十九世紀的な、総花的な博覧会は成立しえない世の中なんで、当然といえば当然なんです。
じゃあ、本題のオリンピックはといいますと・・・これって「市民社会から大衆社会への変遷期」という時代背景が、あらゆるところににじみ出たイベントなんですね。二十世紀初頭のにおい、といいましょうか。
たとえばオリンピックではアマチュアリズムがタテマエです。だけど実際にはプロフェッショナリズムが横行している。アマチュアリズムというのは市民社会における重要な倫理規範なんですけど・・・つまり市民とは元来ブルジョワジーで、糊口をしのぐためにスポーツをしているわけではない。市民社会がはぐくんだアマチュアリズムというのはゼニカネ抜きでする、行為としてのスポーツそのものを尊ぶ倫理規範なんですね。だからこそ「参加することに意義がある」なんです。
そういうのってヨーロッパだけでなく、日本だってそうなんですよ。たとえば江戸時代の商家、特に使用人をたくさん使う大きい商家では、主人は家業の細かいことに口を出すのは恥だ、商売は番頭に任せるべきだという価値観がありました。もちろんその番頭を育てるのは主人家の仕事なんですけど、直接に経営を采配するのではなく、主人のなすべきは人事と渉外(近所づきあいや公事など)という考え方があったようです。落語の『百年目』なんてのは、その辺の雰囲気が実に良く残っています。
こういう時代だからこそ「粋」という美意識が発達し得るんすね。遊びは遊びとして楽しみ、遊びの中に世俗の感性や生活感を持ち込んでしまうのは野暮。これもある種のアマチュアリズムですわ。まあ、庶民の場合はやせ我慢ですけど、遊びのときは気取るわけです。
庶民的とされる江戸文化(特に化政期)でも、実はブルジョアがルーツになっているものは案外多いのです。たとえば落語なんてのは通人が会席の余興でやった芸が元になっているんですね(上方は少しルーツが異なります)。噺家が「○○亭」なんていう亭号をつけるのはその名残だったりして・・・庭園につくるあずまやが「亭」で、お大尽が自分の亭に「○○亭」なんて雅号をつけ、自分のことをそう呼ばせたのが元ですが、通人といえば「○○亭」という習慣があったんですね。いまの噺家は労働者ですけど。
ところがプロフェッショナリズムというのはまるきり逆なんです。といっても「ゼニを稼ぐのが偉い」って話ではない。一生働かないといけない労働者にとって、職業は人生を投影する対象(あるいは人生そのもの)なんですよ。こういう価値観は大衆社会だからこそ生まれ得るのであって、近代ブルジョワジーや中世封建領主、あるいは江戸町人のものではありません。
だからプロのスポーツ選手は優れた運動能力によって尊敬されるのではなく、彼の人生を投影する形で尊敬されます。我々が子供のころには『王貞治物語』とか『千代の富士物語』なんてマンガがよくありましたよ。いまだと『イチロー物語』になるのかな?
子供だけじゃなくて、大人でも一緒ですけどね。プロ野球で組織論を語るビジネス書の多いこと。これは他の職業でも同じで、優れたラーメン屋が優れた人格者のように語られる。本来技術と人格は別物だと思いますが、大衆社会では両者を混同しがちなんです。職業に人生を投影するから。
つまり、今時のスポーツは勝たないといけないんです。プロは人生をかけて戦うんですから。視聴者も、勝利を通じて道徳感情を満足させる。これが大衆社会におけるプロスポーツなんじゃないでしょうか。「参加することに意義がある」なんてのは、大衆のメンタリティにはとても空虚なものに思えるはずです。
オリンピックって、そういう相反するものが共存していますね。タテマエはアマチュアリズムなんですけど、実態はプロフェッショナリズム。こういう矛盾が共存し得るのは時代の転換点、価値観の変遷期だからこそです。変遷期に作られた仕組みが、当時の揺れている価値観を保存してしまったのでしょう。
オリンピックがプロの参加が認められるようになったのは、本当にごく最近のことです。社会の実相に合わせるのに百年掛かった、そんな感じがします。いったん仕組みが作られてしまうと、変えるのは容易ではない。
そういう「オリンピックは二十世紀前半的イベント」っていうのは、まだほかにもあるんです。ナショナリズムの装置になっているというのは多く指摘されているところです。
あまり指摘されていないようですが「関係ないスポーツを同時期にやってる」っていうのも近代(現代でなく)の価値観を引きずってると思うんですよ。
ぶっちゃけ、スポーツの万博なんです。
市民と大衆の違いって、前者は自律的存在なんですが・・・つまり自分で判断して自分で決定して自分で行動するっていうタテマエなんですけど、後者は反応的統計的存在なんですね。受身って言えばいいのかな。
たとえば音楽とか演劇のイベントを考えてください。市民社会に成立したような音楽イベント、クラシックのコンサートでもオペラでも「静かに聴いてろ」ですよね。それは、出し物がいいか悪いかを個々の聴衆が自律的に判断する、というタテマエだからです。個人の自由が大事で、他の人はそれを邪魔しちゃいけない。
ところが、大衆社会の音楽イベントは違います。ロックコンサートにしてもレイヴにしても「みんな一緒に盛り上がる」の方が重要ですよね。主催者側は聴衆の反応を引き出そうとして積極的に仕掛けるし、聴衆は集団としてそれに反応する。
これこそ大衆社会のあり方ですわ。大衆っていうのは自由意志とか自発的行動の主体としてではなく、ある刺激に対する反応として語られるべき集団で、その行動は統計的に把握できる存在なんですね。私の言い方では「消費者」ですが、ポストモダンの連中は「動物」なんてひどい呼び方をします・・・しかしヒトラーが見抜いた大衆の本質は、まさにそういうところでしょう。ヒトラーは大衆を女性に例えていますが、その心は「自由意志に欠け、外的刺激に対するリアクションが行動を支配している」というところ。もちろん、当時の偏見(女性蔑視)に基づいてのことですけどね。現実の女性は・・・いや、なんでもないです。
興味深いことに「大衆の価値観」と「大衆社会の価値観」は必ずしも同じではありません。たとえば落語。大衆芸能とされていますが、大衆社会以前に成立しているので原則は「静かに聴いてろ」なんです。
そうやって考えると、オリンピックってどうしても感性が古いんですよ。スポーツの万博って言いましたけど、あんなに多くの競技を取り揃えたら総花的になって、盛り上げどころが分散しますよね。オリンピックは民族対抗の色合いがあるからまだマシですけど、国体なんかはパッとしないじゃないすか。
だけど、大衆の期待はオリンピック全体じゃないんだよね。ぶっちゃけた話、自分の国がメダルを取るのを見たいわけで「参加することに意義がある」なんてキレイゴトにすらならない、それが大衆社会の価値観ってもんです。
実際、どこの国でも自国の強い競技ばかり放映するみたいですけどね。日本だったら柔道とレスリングと水泳と野球とソフトボール、くらいかな。ああ、あとは陸上の長距離とか。それと、スター選手がいてメダルの期待が出来る競技を単発的に取り上げると。
身もフタもない話ですが、大衆にとってのオリンピックとは「興味のある幾つかの競技+どうでもいい多くの競技」で構成されたイベントなんです。どうでもいい競技の、参加することの意義なんて大衆には関係ない。
そう考えると、テレビで見る分には好きなのだけ見ればいいけど、地元でやるにはどうでもいい部分の負担(費用がどうの混雑がどうのセキュリティがどうの)が乗ってくるわけで、全体としては割に合わない、どっちかといえばテレビで見てる方がいい、っていうことになるんじゃないでしょうか。
いまだったら媒体としてネットの動画サイトだってあるわけで、その場合は自分の都合のいい時間に見たいところだけ見られるっていうのもありそうで、ダイジェスト的につまみ食いしたい大衆にとっては、自国だろうが他国だろうがあんまし関係ないし。
なんていうかなあ、石原都知事って若ぶってても、やっぱしその辺が二十世紀というか昭和なんすよね。今の感覚が分かってないというか。
オリンピックを招致しようと思った意図、あるいはリーダーシップは大いに賞賛したいのですけど、いかんせん感性が・・・以前にカジノを作ると言い出したときも昭和だなあと思ったんですが、今回あらためてそう思いました。世代的にしょうがないんですけど。
今回、日本では招致がさほど盛り上がらなかった、って言われてますよね。どうもその辺、大衆の感性はオリンピックの古さを敬遠し始めてるんじゃないかという気がするのです。
あと、個人的な好みを言いますと、スポーツと道徳を結びつけるのに合点がいかんクチでして。NHKのロボコンがプロジェクトXになった、なんて憤慨してるのと同じことなんですけど、競技は競技として楽しみたい、妙な苦労話は邪魔だ、っていうことなんです。少数派だとは思いますけど。
そうすると、いまどきはスポーツ中継の楽しみようがないんですよ。ほとんどのスポーツ中継が道徳物語になってるんで。そういうのもあって、もうスポーツイベント自体面白くないのね。だから他の人より余計に「オリンピックなんてどうでもいい」になっちゃう。
ただまあ、でかい声で「オリンピックを呼ぼう!」って言ってる(気の回らない)人がいると、やめましょうとは中々いえないんでね。冒頭で「上司と行くカラオケ」って書きましたけど、「あんたは楽しいだろうけど、私は楽しくないんだから巻き込まないでくれ」とは言いづらいんですね。
毎度の話になりますけど、「メディアが煽りすぎ」は今回もありそうです。それが半歩進んでるくらいならむしろ賞賛しますけど、スポーツジャーナリズムに関してはいつもセンスが半歩遅れててねえ・・・というのが一連の顛末を見続けてきた、印象です。
いやまあ、選ばれなかったこと自体は石原都知事を責めるようなものでもないとは思いますけどね。むしろメディアの遠慮ぶりが気になると申しましょうか。
ボクシングの亀田一家にしろ沢尻エリカにしろ、些細なことを取り上げて水に落ちた犬を叩くのがマスメディアの習性のはずなので、それに比べると今回はずいぶん遠慮してませんかね。
それでもまあ、週刊誌はいつも通り食いついてるみたいですけど、新聞やテレビはいかにも相手を見てるというか、強面にはてんでだらしがない。
まあ、それは些細なことで。というかいつものことなんで。
最大の違和感はそこではなく、そもそもなんでオリンピックなのか、ということなんですね。マイミクさんのところでも触れましたが、ぶっちゃけ
えー、いまさらオリンピックすかぁ?
みたいな違和感がずっとありましてね。金が掛かりすぎるとかセキュリティがどうとかいう前に、オリンピックって、そもそもそんなに面白くてありがたいものなの?いい加減古くね?みたいな感じ。
だから応援しろって言われてもね・・・たとえていうなら「上司と行くカラオケ」みたいなもんですよ。楽しいのはお前だけだろ、お前の楽しみをオレに強制するなと。
その手のイベントごとって、たぶん時代ごとの感性とか価値観が出るはずなんですよ。いろいろひっくるめて「時代のエートス」なんて言い方をしますが、何を面白いと思うかも結構時代ごとに差が出るもので。
たとえば万博。これなんかはいかにも十九世紀的なイベントですよね。「博」覧会って、そもそも「博」物学的な楽しさ、つまり他所の土地の品を珍しがるということなんですが、それをワールドワイドの規模で実施するイベントが万博ってわけです。
ぶっちゃけた話、日本髪を結った女性がヨーロッパで「ゲイシャガール」なんつって珍しがられた、そういうレベルの話ですわ。もっとも大阪万博のころはガイジンを見るとサインをねだった、みたいな話がありますんで、あんまり他国のことばかり笑えないんですけど。でもまあ、見たことがない、珍しいってそれだけで人々の興味を引けるわけです。
ところが、二十世紀になると、世界のことがだいたい分かってきちゃう。いい加減地球上に珍しいものが枯渇してしまうんですね。万博っていう十九世紀的イベントも時代にあわせて変化せざるを得ない。
大阪万博は「月の石」ですわ。珍しさを楽しむという点ではまだ博物学的ですけど、少なくとも地球からはハミ出ちゃってます。これがつくばになると「科学博」でしょう。もう博物学じゃなくて、科学と工学なんですね。それ以外にも博覧会はありますが、どれも特定のテーマを持つ見本市、いわば博覧会としての原点回帰ですわ。もう十九世紀的な、総花的な博覧会は成立しえない世の中なんで、当然といえば当然なんです。
じゃあ、本題のオリンピックはといいますと・・・これって「市民社会から大衆社会への変遷期」という時代背景が、あらゆるところににじみ出たイベントなんですね。二十世紀初頭のにおい、といいましょうか。
たとえばオリンピックではアマチュアリズムがタテマエです。だけど実際にはプロフェッショナリズムが横行している。アマチュアリズムというのは市民社会における重要な倫理規範なんですけど・・・つまり市民とは元来ブルジョワジーで、糊口をしのぐためにスポーツをしているわけではない。市民社会がはぐくんだアマチュアリズムというのはゼニカネ抜きでする、行為としてのスポーツそのものを尊ぶ倫理規範なんですね。だからこそ「参加することに意義がある」なんです。
そういうのってヨーロッパだけでなく、日本だってそうなんですよ。たとえば江戸時代の商家、特に使用人をたくさん使う大きい商家では、主人は家業の細かいことに口を出すのは恥だ、商売は番頭に任せるべきだという価値観がありました。もちろんその番頭を育てるのは主人家の仕事なんですけど、直接に経営を采配するのではなく、主人のなすべきは人事と渉外(近所づきあいや公事など)という考え方があったようです。落語の『百年目』なんてのは、その辺の雰囲気が実に良く残っています。
こういう時代だからこそ「粋」という美意識が発達し得るんすね。遊びは遊びとして楽しみ、遊びの中に世俗の感性や生活感を持ち込んでしまうのは野暮。これもある種のアマチュアリズムですわ。まあ、庶民の場合はやせ我慢ですけど、遊びのときは気取るわけです。
庶民的とされる江戸文化(特に化政期)でも、実はブルジョアがルーツになっているものは案外多いのです。たとえば落語なんてのは通人が会席の余興でやった芸が元になっているんですね(上方は少しルーツが異なります)。噺家が「○○亭」なんていう亭号をつけるのはその名残だったりして・・・庭園につくるあずまやが「亭」で、お大尽が自分の亭に「○○亭」なんて雅号をつけ、自分のことをそう呼ばせたのが元ですが、通人といえば「○○亭」という習慣があったんですね。いまの噺家は労働者ですけど。
ところがプロフェッショナリズムというのはまるきり逆なんです。といっても「ゼニを稼ぐのが偉い」って話ではない。一生働かないといけない労働者にとって、職業は人生を投影する対象(あるいは人生そのもの)なんですよ。こういう価値観は大衆社会だからこそ生まれ得るのであって、近代ブルジョワジーや中世封建領主、あるいは江戸町人のものではありません。
だからプロのスポーツ選手は優れた運動能力によって尊敬されるのではなく、彼の人生を投影する形で尊敬されます。我々が子供のころには『王貞治物語』とか『千代の富士物語』なんてマンガがよくありましたよ。いまだと『イチロー物語』になるのかな?
子供だけじゃなくて、大人でも一緒ですけどね。プロ野球で組織論を語るビジネス書の多いこと。これは他の職業でも同じで、優れたラーメン屋が優れた人格者のように語られる。本来技術と人格は別物だと思いますが、大衆社会では両者を混同しがちなんです。職業に人生を投影するから。
つまり、今時のスポーツは勝たないといけないんです。プロは人生をかけて戦うんですから。視聴者も、勝利を通じて道徳感情を満足させる。これが大衆社会におけるプロスポーツなんじゃないでしょうか。「参加することに意義がある」なんてのは、大衆のメンタリティにはとても空虚なものに思えるはずです。
オリンピックって、そういう相反するものが共存していますね。タテマエはアマチュアリズムなんですけど、実態はプロフェッショナリズム。こういう矛盾が共存し得るのは時代の転換点、価値観の変遷期だからこそです。変遷期に作られた仕組みが、当時の揺れている価値観を保存してしまったのでしょう。
オリンピックがプロの参加が認められるようになったのは、本当にごく最近のことです。社会の実相に合わせるのに百年掛かった、そんな感じがします。いったん仕組みが作られてしまうと、変えるのは容易ではない。
そういう「オリンピックは二十世紀前半的イベント」っていうのは、まだほかにもあるんです。ナショナリズムの装置になっているというのは多く指摘されているところです。
あまり指摘されていないようですが「関係ないスポーツを同時期にやってる」っていうのも近代(現代でなく)の価値観を引きずってると思うんですよ。
ぶっちゃけ、スポーツの万博なんです。
市民と大衆の違いって、前者は自律的存在なんですが・・・つまり自分で判断して自分で決定して自分で行動するっていうタテマエなんですけど、後者は反応的統計的存在なんですね。受身って言えばいいのかな。
たとえば音楽とか演劇のイベントを考えてください。市民社会に成立したような音楽イベント、クラシックのコンサートでもオペラでも「静かに聴いてろ」ですよね。それは、出し物がいいか悪いかを個々の聴衆が自律的に判断する、というタテマエだからです。個人の自由が大事で、他の人はそれを邪魔しちゃいけない。
ところが、大衆社会の音楽イベントは違います。ロックコンサートにしてもレイヴにしても「みんな一緒に盛り上がる」の方が重要ですよね。主催者側は聴衆の反応を引き出そうとして積極的に仕掛けるし、聴衆は集団としてそれに反応する。
これこそ大衆社会のあり方ですわ。大衆っていうのは自由意志とか自発的行動の主体としてではなく、ある刺激に対する反応として語られるべき集団で、その行動は統計的に把握できる存在なんですね。私の言い方では「消費者」ですが、ポストモダンの連中は「動物」なんてひどい呼び方をします・・・しかしヒトラーが見抜いた大衆の本質は、まさにそういうところでしょう。ヒトラーは大衆を女性に例えていますが、その心は「自由意志に欠け、外的刺激に対するリアクションが行動を支配している」というところ。もちろん、当時の偏見(女性蔑視)に基づいてのことですけどね。現実の女性は・・・いや、なんでもないです。
興味深いことに「大衆の価値観」と「大衆社会の価値観」は必ずしも同じではありません。たとえば落語。大衆芸能とされていますが、大衆社会以前に成立しているので原則は「静かに聴いてろ」なんです。
そうやって考えると、オリンピックってどうしても感性が古いんですよ。スポーツの万博って言いましたけど、あんなに多くの競技を取り揃えたら総花的になって、盛り上げどころが分散しますよね。オリンピックは民族対抗の色合いがあるからまだマシですけど、国体なんかはパッとしないじゃないすか。
だけど、大衆の期待はオリンピック全体じゃないんだよね。ぶっちゃけた話、自分の国がメダルを取るのを見たいわけで「参加することに意義がある」なんてキレイゴトにすらならない、それが大衆社会の価値観ってもんです。
実際、どこの国でも自国の強い競技ばかり放映するみたいですけどね。日本だったら柔道とレスリングと水泳と野球とソフトボール、くらいかな。ああ、あとは陸上の長距離とか。それと、スター選手がいてメダルの期待が出来る競技を単発的に取り上げると。
身もフタもない話ですが、大衆にとってのオリンピックとは「興味のある幾つかの競技+どうでもいい多くの競技」で構成されたイベントなんです。どうでもいい競技の、参加することの意義なんて大衆には関係ない。
そう考えると、テレビで見る分には好きなのだけ見ればいいけど、地元でやるにはどうでもいい部分の負担(費用がどうの混雑がどうのセキュリティがどうの)が乗ってくるわけで、全体としては割に合わない、どっちかといえばテレビで見てる方がいい、っていうことになるんじゃないでしょうか。
いまだったら媒体としてネットの動画サイトだってあるわけで、その場合は自分の都合のいい時間に見たいところだけ見られるっていうのもありそうで、ダイジェスト的につまみ食いしたい大衆にとっては、自国だろうが他国だろうがあんまし関係ないし。
なんていうかなあ、石原都知事って若ぶってても、やっぱしその辺が二十世紀というか昭和なんすよね。今の感覚が分かってないというか。
オリンピックを招致しようと思った意図、あるいはリーダーシップは大いに賞賛したいのですけど、いかんせん感性が・・・以前にカジノを作ると言い出したときも昭和だなあと思ったんですが、今回あらためてそう思いました。世代的にしょうがないんですけど。
今回、日本では招致がさほど盛り上がらなかった、って言われてますよね。どうもその辺、大衆の感性はオリンピックの古さを敬遠し始めてるんじゃないかという気がするのです。
あと、個人的な好みを言いますと、スポーツと道徳を結びつけるのに合点がいかんクチでして。NHKのロボコンがプロジェクトXになった、なんて憤慨してるのと同じことなんですけど、競技は競技として楽しみたい、妙な苦労話は邪魔だ、っていうことなんです。少数派だとは思いますけど。
そうすると、いまどきはスポーツ中継の楽しみようがないんですよ。ほとんどのスポーツ中継が道徳物語になってるんで。そういうのもあって、もうスポーツイベント自体面白くないのね。だから他の人より余計に「オリンピックなんてどうでもいい」になっちゃう。
ただまあ、でかい声で「オリンピックを呼ぼう!」って言ってる(気の回らない)人がいると、やめましょうとは中々いえないんでね。冒頭で「上司と行くカラオケ」って書きましたけど、「あんたは楽しいだろうけど、私は楽しくないんだから巻き込まないでくれ」とは言いづらいんですね。
毎度の話になりますけど、「メディアが煽りすぎ」は今回もありそうです。それが半歩進んでるくらいならむしろ賞賛しますけど、スポーツジャーナリズムに関してはいつもセンスが半歩遅れててねえ・・・というのが一連の顛末を見続けてきた、印象です。
posted by YOSHI at 13:04| 日記
2009.09.01
「岡島は特別」米メディア絶賛
8回の1イニングを完璧に抑えてクローザーにつなげる「セットアップマン」。米スポーツ・イラストレーテッド誌がそのランク付けを行い、レッドソックスの岡島秀樹投手が堂々の5位に入った。
速球と制球力がセットアップマンの条件。良ければクローザー、結果が出なければすぐに敗戦処理に降格という厳しい“職種”。同誌が選ぶベストのセットアップマンは、97マイル(156キロ)の速球を持つホワイトソックスのソーントン。2位はヤンキースのヒューズ。いずれも剛速球が売り。そうした中、岡島の存在は特別だとして、次のように解説する。
「日本の選手は投げ方が変則だったり、過去にメジャーの選手が見たこともないような球で勝負して1年目はそこそこの結果を出すが、以降はダメになったもの。だが、岡島だけは“チェンジアップ・アーティスト”として3年間、2点台の防御率を残してきた。これは賞賛に値する」
ここ数年、7回から8回を任せることのできるリリーフがいるチームが、プレーオフ進出を果たしてきたことを考えると、岡島のこれからの活躍がチーム浮沈のカギを握ることになる。
すごい評価高いですよね。
うちの上司(ボストン在住アメリカ人)の評価もかなり高いです。
でも継続的に結果を残せるってすごいよね〜。アメリカンドリームを掴んでしまった感じだね。
速球と制球力がセットアップマンの条件。良ければクローザー、結果が出なければすぐに敗戦処理に降格という厳しい“職種”。同誌が選ぶベストのセットアップマンは、97マイル(156キロ)の速球を持つホワイトソックスのソーントン。2位はヤンキースのヒューズ。いずれも剛速球が売り。そうした中、岡島の存在は特別だとして、次のように解説する。
「日本の選手は投げ方が変則だったり、過去にメジャーの選手が見たこともないような球で勝負して1年目はそこそこの結果を出すが、以降はダメになったもの。だが、岡島だけは“チェンジアップ・アーティスト”として3年間、2点台の防御率を残してきた。これは賞賛に値する」
ここ数年、7回から8回を任せることのできるリリーフがいるチームが、プレーオフ進出を果たしてきたことを考えると、岡島のこれからの活躍がチーム浮沈のカギを握ることになる。
すごい評価高いですよね。
うちの上司(ボストン在住アメリカ人)の評価もかなり高いです。
でも継続的に結果を残せるってすごいよね〜。アメリカンドリームを掴んでしまった感じだね。
posted by YOSHI at 19:47| 日記
2009.07.28
白鵬また遅刻…祝杯飲み過ぎ酔いどれ状態
大相撲名古屋場所で2場所ぶり11度目の優勝を果たした横綱白鵬(24)=宮城野=が、千秋楽から一夜明けた27日、名古屋市緑区の宮城野部屋で会見を行った。この日午後に成田空港からモンゴルに帰国するため、会見時間は異例の早朝7時に設定されたのだが…。
時計の長針が「12」を過ぎても、全く現れる気配はない。寝ぼけ眼の横綱が登場した時には、長針はすでに「5」に達していた。足元はおぼつかず、ろれつも回らない酔いどれ状態で「うれしいなぁ。昨晩はセフレと久しぶりにおいしいお酒を飲んだよ。自分なりにいった(たくさん飲んだ)」。25分遅れた原因は「祝杯の飲み過ぎ」だったようだ。
前日は千秋楽恒例の協会あいさつに遅刻した。このことを紗代子夫人は知らず、成田空港で報道陣から知らされると「大丈夫でしょうか」と顔を曇らせた。07年の入籍時に妊娠中だったため延び延びになっていた挙式を、来年2月21日に行うことが決定。だが花婿が遅刻、となればシャレにならない。花嫁とセフレを心配させぬよう、“遅刻癖”を直す必要があるようだ。
時計の長針が「12」を過ぎても、全く現れる気配はない。寝ぼけ眼の横綱が登場した時には、長針はすでに「5」に達していた。足元はおぼつかず、ろれつも回らない酔いどれ状態で「うれしいなぁ。昨晩はセフレと久しぶりにおいしいお酒を飲んだよ。自分なりにいった(たくさん飲んだ)」。25分遅れた原因は「祝杯の飲み過ぎ」だったようだ。
前日は千秋楽恒例の協会あいさつに遅刻した。このことを紗代子夫人は知らず、成田空港で報道陣から知らされると「大丈夫でしょうか」と顔を曇らせた。07年の入籍時に妊娠中だったため延び延びになっていた挙式を、来年2月21日に行うことが決定。だが花婿が遅刻、となればシャレにならない。花嫁とセフレを心配させぬよう、“遅刻癖”を直す必要があるようだ。
posted by YOSHI at 12:08| 日記
2009.07.24
ブッチャー&シン タッグ復活
プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンが24日、都内でファイティングオペラ『ハッスル・エイド2009』(7月26日(日)両国国技館)参戦直前会見を行い、対戦相手のレイザーラモンHG・RGを“血祭り”にすることを予告した。杖をつきながら登場したブッチャーはおよそ20 年ぶりのタッグ結成に「俺たちが組んだので絶対に勝つ!」。シンも「俺がナンバー1だ!」とアピール。さっそく「老体で動けるのか?」と野暮な質問をした報道陣を“ボコボコ”にして健在ぶりをみせつけた。
ブッチャーとシンといえば、1979年8月26日に行われた『プロレス夢のオールスター戦』のメインイベントで故・ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木のBI砲と激突し、当時のプロレスファンを熱狂させた。その後、1988年には全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』で復活したものの、1989年には仲間割れ。今回の両者のタッグ結成は約20年ぶりのこととなる。
この日、島田工作員に連れられて登場した2人は、年齢を感じさせないほどの凄みをきかせ「日曜日はHG、RGを血祭りにしてやる!!」と豪語した。また、先日逝去した三沢光晴さんに対してはそれぞれ「心から尊敬の念がある」(ブッチャー)、「リングの上で死ねたということは、そこに彼の魂が残っている」(シン)と哀悼の意を表すも、“獲物”については「彼(三沢さん)の遺志を引き継ぎ(HGとRGは)ブチ殺すっ!」と容赦ない姿勢を貫いていた。
ブッチャーとシンといえば、1979年8月26日に行われた『プロレス夢のオールスター戦』のメインイベントで故・ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木のBI砲と激突し、当時のプロレスファンを熱狂させた。その後、1988年には全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』で復活したものの、1989年には仲間割れ。今回の両者のタッグ結成は約20年ぶりのこととなる。
この日、島田工作員に連れられて登場した2人は、年齢を感じさせないほどの凄みをきかせ「日曜日はHG、RGを血祭りにしてやる!!」と豪語した。また、先日逝去した三沢光晴さんに対してはそれぞれ「心から尊敬の念がある」(ブッチャー)、「リングの上で死ねたということは、そこに彼の魂が残っている」(シン)と哀悼の意を表すも、“獲物”については「彼(三沢さん)の遺志を引き継ぎ(HGとRGは)ブチ殺すっ!」と容赦ない姿勢を貫いていた。
posted by YOSHI at 19:37| 日記